NEEDY GIRL OVERDOSE:幸せで幸せで幸せで幸せでどうしようもなくて
実はこの内容は今年の1月ぐらいにnoteに投稿する予定だったものだ。最近Switch版が出たので急いで原稿を掘り出した次第である。
去る1月21日、NEEDY GIRL OVERDOSEというゲームが発売された。
初報から気にかけてたゲームなのだが、1回の延期を得てついに発売。
発売日当日に買ってプレイしたのだが、どうにも解像度が高くて、エグってくるものがある。
というか、このゲームに関してレビューや批評を書いているライターは、
本作に出てくる「あめちゃん」のような人と関係があった人ばかりしかいない気がする。(ちょっと闇がないか?)
かくいう私もそうかもしれない。てか、なんなら私もそっち側の人間であるかもしれない。
似たもの同士は惹かれあって、傷を舐め合って生きていく。
目次
このゲームについて
顔がいいことしか取り柄がない女の子をプロデュースするゲームだ。
育成ゲームと一言で言ってしまったほうが楽だろう。
主人公は「あめちゃん」のピとなり、4種類ぐらいのステータスを管理して、
1か月でフォロワー100万人を目指すことが目的だ。
目的のためには手段を択ばず、SNSしたり、向精神薬をキメたり、ゲームしたり、
お出かけしたり、Net●lixみたり、時には一日中腰を振ったりして、オタク向けに生配信をしてあげる。
埋めても埋めても埋まらない承認欲求と劣等感が、傷になって甘く膿んじゃって、
零れたものをひたすら舐め合ってお互いに離れられなくなる。
そんな体験が出来るゲームだ。というかこの体験がこのゲームの本質である。
承認されたい認められたい生きていいって言われたいでもレッテル貼らないで
「あめちゃん」は架空の人物である。
その生々しさに錯覚しようとも、結局はプログラミングで作られたオタクの好きな女子である。
「あめちゃん」は何故配信者になろうとしたのか。
承認欲求と一言で表せば簡単だが、満たされぬ承認欲求は、普通の生活では「あめちゃん」が承認されたことがないという証左だ。
もしくは承認されているが、埋めようのない渇望であるかもしれない。
ピがいても承認欲求が埋められないのは、それはそれ、これはこれ。という話である。
欲求を満たす承認にもジャンルがある。1人から無限の承認を得るのと、100万人からその場限りの承認を得るのはジャンルが違う。満たされるものも当然違う。
「あめちゃん」は後者のほうが好きなようだ。
100万人という具体性も何もない数字を目標にしたのは、打算があったからではなく、たぶんきっとバカだからだろう。
でも、ゲームスタート時点ではそれしか拠り所がなかった。というよりは、それしか自分を動かすものはなかった。
「あめちゃん」は自分がバカだからピの言うことに従うと言う。
それはゲーム的な都合を含んではいるかもしれないが、承認されない「あめちゃん」が承認されることで「あめちゃん」になっていくからだ。
本作は育成ゲームで、「あめちゃん」がネットの人気者になるよう育成するゲームだと思っていたが、実は違うんじゃないかと思っている。
本作で育成しているのは「もはや変えようがない1人の大人」だ。
本作はステータスの変動により「あめちゃん」がリスカしたり配信したり勝手に動き出す。
これは自我が「あめちゃん」に芽生えたわけではない。なぜなら「あめちゃん」は架空の人物だから。それは間違いないはずだ。
承認されなかった「あめちゃん」が承認されることで起こす発作だ。
承認欲求とは厄介なものである。承認されたい、承認されたいと渇望するが、いざ承認されると、そうではないと言いたくなる。
こういった気持ちを抱えてない人は、だいぶ健康じゃないかなと思う。
承認されたいけど、そうじゃない。理想と現実の剥離、本当はどうしようもなく醜い自分という人間がいるんだけど、
承認されたのはペルソナにしか過ぎなかった。など。
「あめちゃん」が思うような承認をされなかったから、切って暴れて爆発するのだ。
めんどくさい女だね。でもそんなめんどくさいところは嫌いになれない。
だって自分の理想とは違う承認をされることで発作が起きるなんて、「あめちゃん」に自我があるみたいじゃないか。あれ
「あめちゃん」は実存している。
それはあまりにも生々しく、人としての不可解な言動を引き動かすことからもわかるように。
AIが人に近づくように、それが作者が得た一定の集合知だとしても、あたかもそこにいるかのように「あめちゃん」は実存している。
ああそうだ。本作はリアリティといった現実との距離の話じゃない。現実をトレースした偶像で、とてつもなく解像度が高いんだ。
ハッピーと幸せは違って、幸せはハッピーとは違うんだって
本作のプレスリリースで目についた一文がある。
「ハッピーエンド」がこのゲームにあると思いますか?
私は本作のエンドはすべてハッピーだと思う。
が、正確にはハッピーと幸せは違うんだろうな。とも思っている。
エンディングは様々だ。だが、そのどれもが心を穿り回す。
インターネットのバカさ加減に気が付いて、資格を取るため現実に戻っても、
セックスの快感におぼれて、全てがどうでもよくなっても、
愛想つかされて縁が切れても、100万人行かなくても、
薬におぼれても、教祖になっても、本当にインターネットの天使になっても。
確かにハッピーエンドではないかもしれない。
だが、私はそのどれもが幸せを感じる結末だと思える。
私は普通の社会人で、狂っているはずもないので、一般的とは言えないが、このゲームに幸せを感じるのは1つの見方として受け入れられてほしい。
私が幸せを感じている要因は、「あめちゃん」がエンディングを迎えることで「あめちゃん」として生きるからだ。
お分かりいただけるだろうか。繰り返すが私は正常である。
このゲームに停滞はない。
夏休みに8月32日が無いように。ずっとこの空間が続けばいいと思っても、そんなハッピーは時間と社会と年齢が許そうとしない。
「ある女の子」は超有名配信者になりたいと願った。そして行動して、ゲームが始まって「あめちゃん」になった。
「あめちゃん」がインターネットを辞めても、それが「ある女の子」の選択であればピは幸せだ。
「あめちゃん」とセックスに溺れても、「ある女の子」がそれでいいって言うなら、ピは幸せだ。
「あめちゃん」の愛想が尽きて、「ある女の子」が別の道に進んでも、それが選択ならピは幸せだ。
薬に溺れても、教祖になっても、本当にインターネットの天使になっても。
「ある女の子」が「あめちゃん」として生きていくことを迎えたなら、それはピとして幸せだ。
結果はハッピーじゃない。はたから見ても、プレイヤーとして考えてもハッピーじゃない。
でも、歪んでいたとしても幸せだと思う。「あめちゃん」は「あめちゃん」であることを選択したのだ。
その選択に後悔があっても、またその傷は舐め合えばいい。それが、当事者が享受できる幸せの権利だ。
幸せと言えば、「最大多数の最大幸福」なくして現代社会の形成はありえなかった。
刑事罰が正当化される理由も、犯罪者という少数を収容することで、社会にいる多数の被害を防ぐこと、
犯罪者の更生を行うことで、社会にある最大多数の総量を増やすという「最大多数の最大幸福」に基づいた理論だ。
だが、これは社会という集団が今よりもっと大きな集団を形成していたから通じていた理論に過ぎない。
ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。それを社会と呼ぶ。
その共通項とは、国家であり人種であり宗教であり自治組織であった。だが今はどうか。
個の尊重と性差への問題意識。人々がよりよい社会を目指し、我々は集団から脱し個としてのありようを求められ、個としてのありかたを考えることになった。
最大多数の最大幸福は、今やその最大の定義すらも曖昧な状態である。
変化のない幸せの日常だけが、全員にとっての幸福なのか?
このゲームにおける幸せとは、どうしようもない自分から変わったんだと思えることなのだ。
それが、ただ「あめちゃん」が感じられる唯一の幸せなのだ。
どのような結末を迎えようとも、それは「あめちゃん」が決めた「あめちゃん」としての到達点なのだ。
どれだけ悪路でねじ曲がった道だろうと、8月32日やエンドレスエイトに閉じ込められるより、終わりへと到達したことが幸せで、
幸せで幸せで幸せで幸せでどうしようもないのだ。
うらやましいよな
ここからは実績「I Need you」のネタバレを含む。
全てのエンディングを見た後、デスクトップにある「ひみつのこと.txt」が開けるようになる。
読みたくない人はひとまずここまで
全てのエンディングを経験したピに知らされる衝撃の事実。
それは、ピなんていない。ということだ。
正確には「あめちゃん」が作り出したイマジナリーフレンド。それがピである。
今までのエンディングは夢だったのだろうか。
「あめちゃん」にはピなんていらなかった。
自分1人で100万人のフォロワーを獲得するまで行動できる力があったのだ。
まるでRTAのチャートを組むように、Day0で試走して、Day1からピが産まれた。
これを見て私が感じたこと、それは一種の羨望だ。私が持っていないと羨むもの。
「ある女の子」は「あめちゃん」だった。
「あめちゃん」というキャラを「あの女の子」はやりきった。
「あめちゃん」という夢から覚めないためにピを作ったのだ。
ペルソナ、それは「私」の人格であり「私」ではない。
「あめちゃん」、それは「ある女の子」の人格であり「ある女の子」ではない。
自分にもわからない自分が、心のどこかにいると感じるように、本当の「私」はここにはいない。
「私」という自分を、表層に出しているだけで、常に本当の自分が顔を出さないか、注意を払って日々を過ごしている。
「私」と自分の距離が0になったとき、私は初めて「私」になるようだ。
「ある女の子」はイマジナリーフレンドを使って「あめちゃん」を宿したというべきか。
あの女の子とあめちゃんの距離はとうに0だったのだ。どっちが自分か分からないほどに0だった。
使えるものを使って、自分を私の姿にトレース出来ることのなんと羨ましいことか。
幸か不幸か、私はそういったラインにたどり着けない。
イマジナリーフレンドを使ってまで極められれば、どれほど楽だろうなと思いつつ、
そこまで行った時が終わりの始まり、奈落への入口だと言い聞かせることで、自分を社会的生物に留めさせている。
でも、恐らくだけど、終わりのない繰り返しなのだろう?このピが失敗作だったように。
自分が求める私はどこまでも際限がなく肥大化していく。
やがで呼吸をするように繰り返していくのが分かる。
効いていた薬が効かなくなるように、依存と耐性がどんどんと大きくなっていく。
私たちを待っているのはOVERDOSEだ。
ゲロ吐き土から離れる
本作は劇物だ。効く人には覿面な激ヤバ電子ドラッグである。そして私にも効いた。とても痛い。
でも気持ちがいい。数々のサブカルネタに彩られた本作はプレイしていてオタク特有の元ネタ探しと早口になること請け合いだ。
そしてしっかりと「あめちゃん」が「あーこういうのいるよねー」感を出しているのがとてもよかった。
とてもとても、わかりみの深いゲームだった。それは「あめちゃん」自身だけではなく、ゲームの中で出る様々なことに対しての理解だ。
これはとても個人的な見解だが、たぶん誰かから求められたいという承認欲求は、突き詰めれば誰かから生きてていいよと言われたいだけなのかもしれない。
だが、生きるということに意味を見出してしまったが最後。もうどうしようもなく普通には生きられない。
飯食って働いて糞して寝るだけでいいはずなのに、そこに価値を生み出そうとしてしまう。それが生きるということだと曲げたくない思いがある。
価値を見出しちゃったから、誰かから生きてていよと言われても、もうどうしようもなく満たされなくなってしまったんじゃないだろうか。
生きることに価値を出すため、あがき、生み出し、落ち込み、崩れていく。
それが幸せなんだと信じることでしか、生きていけない人間なのかもしれない。
同じような人を見つけては、時に傷を舐め合って仮初の充足感を得ているのは、もうとうに人間ですらない獣なのかもしれない。
埋まっても埋まっても満たせない承認欲求の正体は、自分で作ってしまったグルメな胃とも言うべきか。
クソデカ承認欲求を持つ「あめちゃん」だって、ゲーム内で笑うし、本人が楽しければいいんじゃないか。
そこに治療薬は無くて、ただただ気分を良くする何かしかない。それでも、それがその人にとっては幸せということなんじゃないか?
顔以外はほんっとにいいところがない「あめちゃん」を突き放せずに書いちゃうあたり、
認めたくはないが、疑似的な共依存に取りつかれ、気付かないうちに私もINTERNET OVERDOSEの一歩手前にいるかもしれない。
果たしてこんな生々しい幻想を見せてくれるインターネットをやめられるのだろうか、いや無理だろうな。
誰かインターネットにさよならを教えて。
現実はクソじゃないが、もうインターネットを手放すことが出来ない立派な中毒者だ。
もうどうしようもない。待っているのはOVERDOSEだ。
でも「あめちゃん」のように、そこに笑顔があって、幸せを感じているなら、
私たちだって、無理やり人生ハッピーエンドにしなくてもいいんじゃないだろうか。