Column(PC)

ゲームとは焼き魚である

伊達 三吾

ゲームに何を求めるだろうと考えたとき、一番に思いつくのは満足度だ。


お金を支払い、時間を消費し、それに見合う体験をしたときに私は「うわぁ、いいゲームだ」と満足できる。
もっとしっくりした言い方をするならば「食いで」のあるゲームかどうかが大事ではないかと思っている。

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そこで私は閃いてしまった。ゲームとは焼き魚だ。

マクロ的な視点から見るとゲーム文化は食文化に似ている

ゲーム文化はたった一つの娯楽から様々な社会現象にまで発展した。RTAや大会などスーパープレイを見るコンテンツにもなったし、レビューという品評もある。
食文化も同じである。最初は生きるために必要だったものが、いつか見た目も味も追い求めるようになり、品評が始まったり料理人たちの腕を競う番組なども生まれた。

マクロ的な見方をするとゲーム文化は食文化に似ている。
だがゲームという一本の娯楽をどう楽しむか、以下にしゃぶりつくすか
ミクロ的に見ると、それはきっと焼き魚なのだ。

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ばんざい!インタラクティブ

ゲームに必要不可欠なのはインタラクティブ性だ。
ゲームとは受け身ではなく、プレイヤーのアクションに対してゲーム側からリアクションが返ってくる。
双方向性があるからこそ、ゲームは他の娯楽と一線を画している。

実は、食卓に出る「魚」自体にもインタラクティブ性が存在する。

ほかの食べ物で、例えば肉。これは調理されて食卓に出される段階でインタラクティブ性は消失する。
なぜなら精肉されて出てくるからだ。食卓には食えるところしか出てこない。肉の味も同じである。
んじゃもう食うだけだ。どう食うかなんて関係ない。どこ食っても同じ部位の肉だ。

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だが焼き魚は違う。食卓に出されている段階で食えるところと食えないところが両立している。
ヒレ…あまり食べるのをよしたほうがいいだろう。さんまのはらわた、血合い、頭…別に無理して食べる必要はない。
そして、骨。いかに上手く綺麗に取り除くか。食える部分が大きく変わる。

焼き魚を食べるときはインタラクティブの海の真っただ中にいる。
ダンジョンをクロールするがごとく、自分が操作する箸の動きによって焼き魚のゲーム体験。正しくは焼き魚体験が変化するのである。

だからゲームとは焼き魚なのだ。

どう食べ進めるかという遊び

魚の食べ方は色々あるし、どれもうまい。
でも、なんだかんだ焼き魚が魚の食べ方として一番「食いで」がある。

新鮮な刺身の舌触りは格別、でも味に単調さを感じる。
煮つけのぷるぷるほろほろと優しい触感、でも最初から最後まで同じ食感に飽きが来る。
揚げも軽やかな衣とホクホクとした身は最高、でもちとくどすぎる。

太平洋に面する港町で暮らし続け数十年、新鮮な魚が目と鼻の先で日々揚げられる環境でも、結局一番食卓に並んで嬉しいのは焼き魚だ。

香ばしい香り、皮のパリパリ感、それでいて身はしっとりとしている。さんまであれば、はらわたは身と違い苦くも美味しい。
なんて言ったって焼き魚は立った一匹の魚にバラエティが豊かにつまっている。
遊び心を掻き立てるのだ、オーソドックスに背から食おうか、あえて腹から行くか、
首か?尾か?皮と身を一緒に食うか?いやいや、皮は除けて茶漬けのだし取りにするか?
おいこの魚、こっこ(魚卵のこと、方言)あるじゃんラッキー!

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焼き魚にはサプライズも、多種多様な攻略方も存在する。まさにゲーム性である。

だからこそ、一つのゲームでもプレイヤーによってゲーム体験は変化するし、同じプレイヤーでもプレイタイミングによってゲーム体験は変化する。
同じようにさんまの塩焼きが三日三晩続いても、同じ食べ方はない。焼き魚体験は変化するのである。

どう食べ進めるか、どう遊ぶかは同じ思考である。

まぎれもなくゲームとは焼き魚なのだ。

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