ドキュメンタリーにコペルニクス的転回をもたらした怪物
※本投稿はnoteに記載したものを転記しています
https://note.com/datedate3513/n/n5a780f1bc44e
ちょうど1年前、ゲーム中心の論考ブログ【てりやきディナー未来へ行く】を閉鎖した。
最初は自分自身の持て余した創造意欲の吐き出し口として運営していたものが、
なかなかご好評をいただき、読んでいただいた方に惜しまれつつも一番美味しいところでクローズした。
この一年、色々とアウトバウンドはしてなくてインバウンドの年だった。色々な作品に振れる事が出来たが、やはり文章で魅力を発信していきたい作品は多くある。
今回は【ウマ娘 プリティーダービー】について。
本作の面白さや、なぜこれだけバズったのかという話は、とうに先人たちが書き尽くしているため、ここでは取り上げない。
私が本作に触れ、ドキュメンタリーのコペルニクス的転回を見た。その点について本記事で論考したいと思う。
目次
事実は小説より奇なり
この言葉は、イギリスの詩人バイロンが書いた「ドン・ジュアン」という作品から生まれた表現である。
ミレニアル世代にカテゴライズされる私だが、そんな短い人生経験の中でも、この一節はまさにその通り。事実はフィクションを飛び越えてはるかに面白く、熱中できることが多い。
ウマ娘も事実を元にした作品だ。
存在する競走馬の名前を冠したウマ娘たちが、現実と同じ名前を冠したレースに出走し、事実通りの栄光をなぞっていく。
この作品に触れるまで、私は競馬に疎い人間だった。それどころか、心のどこかでギャンブルとして軽んじていた所もある。
だが、競馬は紳士のスポーツと呼ばれるように人馬が一体となり繰り広げられるレースは想像するより遥かにドラマチックなものだ。
荒唐無稽とも言える大逃げを繰り広げた名馬、絶望的な状況から奇跡の復活を遂げた名馬、幾度の激戦を越え逆襲のラストランを記憶に刻み込んだ名馬。
語り尽くせない事実は我々が想定するフィクションを遥かに超えている。
事実は走り出し始め、
事実を下敷きにした作品は別にウマ娘だけではない。擬人化作品の大半は事実を下敷きにしているだろう。
もちろんウマ娘が事実を元にした擬人化作品のパイオニアという訳でもない。
このようなカテゴリでは【艦これ】がまさにパイオニアとして相応しいだろう。
それに「実在する生物の擬人化」というより近しいカテゴライズをすると【けものフレンズ】がパイオニアと言えるだろう。
【ウマ娘 プリティーダービー】は別段「擬人化」及び「実在する生物の擬人化」のパイオニアではない、つまり目新しさというのは皆無なのである。
だが、先達の擬人化作品と大きく一線を画す点がある。
それは「事実というドラマを含めて競走馬の個と捉え擬人化」したということだ。
【ウマ娘 プリティーダービー】のメインは育成モードだ。育成モードでは、ウマ娘ごとに個々の育成シナリオが存在している。育成シナリオでは、選んだウマ娘を”基本的に”史実の目標レースに沿って、最終的にはURAファイナルズの優勝を目指すというのが基本の流れである。
この育成モードが他の「擬人化」作品と一線を画すのは、「個」の物語であるという点である。そこにサポートカード編成があったとしても、私の愛馬がURAファイナルズで優勝を逃しそうなときに、彼女たちがレースに出てきて不思議の力で一位にしてくれるわけでは無い。あっても幕間のイベントと
トレーニング周りのバフぐらいだ。
【艦これ】や【けものフレンズ】のように横に共に立ち戦う仲間はいない。実際の競馬がそうだったように、ウマ娘達のレースも個々の勝負事であり、しのぎを削る。プレイヤーはレースに何か必要な指示などもない。やることはやった、ならば最後は時の運に任せる。それこそが勝負であり、レースなのだ。だから誰にもどうなるか分からない。だからこそ物語はドラマチックになる。
実際のレースがドラマチックだったように、ウマ娘たちのレースも同じくドラマチックになるのは必要であり必然なのだ。
なぜならば、このドラマは競走馬たちを語る上でも、擬人化するうえでも絶対に必要な個性だからだ。
だからこそ【ウマ娘 プリティーダービー】は実際に存在した競走馬の事実に準ずるドキュメンタリー作品と言える。
しかし【ウマ娘 プリティーダービー】はさらにここから新たな段階にジャンプしている。
それは事実の先にあった夢を描いた点だ。
ウマ娘という作品は、作り事や虚構ではない。数ある数奇な事実を、実際に存在したドラマを下敷きにした作品なのである。
そして思いも、夢も駆け出した
事実とは数奇である。万雷の拍手と喝采で栄光を関する馬がある日突然表舞台から消えることもある。
必ず誰かが思ったはずだ
「あの時あんな悲劇が起こらなければ」
必ず誰もが夢見たはずだ
「そしたらきっと」
作品において、事実をそのまま使うのは厄介なものである。
何故なら事実の大半がもう終わりを迎えているからだ。終わりを迎えた事実は広げようが無い結果として存在している。
だから人はifというフィクションを考えずにはいられないのである。
ifをテーマにした作品も多い。特に歴史系のストラテジーゲームはifの塊である。
だが個のifが描かれているものは少ない。例えば某美大落ちのちょび髭が美大に受かったというifを組んでも、最後に語られるのは「まぁドイツはもう1回戦争なんてしなかったんじゃないかな」という国家などの集合体ifになる。
個におけるifは他者から興味を持たれることはない。個のifを考えるとは、それすなわち、個が中心として発生した社会現象に対するifに繋がるからだ。誰も他の個に対する「もしかしたら」なんて気にしないし、求めていないのである。
しかしウマ娘は競走馬という個に対する「もしかしたら」を描いた。
本作における代表的なifは「サイレンススズカの天皇賞(秋)1着」と言える
だが、それとは毛色の違うifがある。
それこそが「URAファイナルズ」である。
「URAファイナルズ」にたどり着くには、史実通りの目標を達成しなければならない。目標を越えられなければ参加資格さえ無い。
それはつまり、事実という数奇なドラマを乗り越えたものにしか見ることができない世界であり、180度事実とは逆なのだ。
ウマ娘たちが3年という月日を越えて辿り着くのは、シナリオにおける最終目標とは、事実ではない、夢なのだ。誰かが思った夢、誰もが見た夢、誰よりもレースに出た馬たちが求めた夢、そして今はウマ娘と私たちが追い求める夢なのだ。
【ウマ娘 プリティーダービー】は実際に存在した競走馬の事実に沿うドキュメンタリー作品だ。しかしながら「URAファイナルズ」という夢を最終目標とすることで、ウマ娘たちの物語にコペルニクス的転回が生まれるのだ。
本作におけるifとは、前述した「サイレンススズカの天皇賞(秋)1着」である。
そして毛色の違うif……つまり夢とは「URAファイナルズ」という新たな世界。
ずっとずっとずっとずっと想い 夢がきっと叶うなら
あの日キミに感じた何かを信じて
春も夏も飽きも冬も超え 願い焦がれ走れ
Ah 勝利へ
未来描きゴール目指し
狙え挑め掴めWINNING
ずっとずっとずっとずっと想い 夢はきっと叶うから
あの日キミが流した涙も信じて
雨も風も雲も闇も超え 願い焦がれ走れ
Ah 勝利へ
「URAファイナルズ」に辿り着き、走り抜けたのは競走馬ではなかった。競走馬たちの個が宿った「ウマ娘」だった。事実に準じた物語の先へ、ifをも越えた夢をウマ娘は駆け抜けていく。
これこそが事実に準ずるドキュメンタリーのコペルニクス的転回だ。【ウマ娘 プリティーダービー】は奇妙な事実という物語のその先へ到達したのだ。
まとめ
多くの擬人化ゲームは、特に兵器や武器などの無機物を擬人化したゲームは、現実には頓挫した設計をゲーム内で実装できるというifばかりを描いてきた。
一方で、生物を擬人化したゲームはifを描くことは少ない。何故ならifというものは描きようがない。ifとは、そこに人を惹きつけるドラマ性が無ければ生まれないのだ。
【ウマ娘 プリティーダービー】の構造はまさに怪物である。
同じ擬人化のゲーム群を探しても類を見ない物語なのだ。
【ウマ娘 プリティーダービー】は今後もずっと語り継がれることになる作品だ。
それはまるで神話のように、実際の競走馬たちの活躍が、ドラマが、今まで人々によって語られ続けたように。
きっと我々もウマ娘を語り続ける。